その島に、夜明けが訪れることはなかった。
「ちょっと出かけてくる」
おれは誰に言うでもなく脱ぎ捨てたままにしていたシャツを掴むと、甲板を横切り縄梯子に足をかけた。
「副船長ー!ドコ行くんすか――!?」
見張り台から叫んだ帽子の男を見上げ、口を開く代わりに軽く手を上げて答える。
―――何処へ・・・
“どこ”という目標などなかった。
何か適当に言えば少しは納得しただろうが、自分でも行き先の判らない場所を説明するだけの余裕がこの時のおれにはなかったのだ。
あるとしたら霞みの様に儚い、期待というの名の衝動だけだった。
もしかしたら―――・・・
「もうすぐ出航ですよ?」
「それまでには戻る」
おれは煙草を取り出して咥えた。
何人かが武器を片手に立ち上がったが、おれはそれを眼で制し飛び降りるように縄梯子を蹴った。
地についた途端、乾いた土が両足に絡みつくように舞い上がる。
だが空気はしっとりと濡れており、それでいて不快さを感じるわけでもなかった。
夜気はどこまでも澄んでいる。
―――そして
そして―――どこまでも
深い、闇が続いていた――――・・・・・・
“夜島”と呼ばれるこの島に着いたのは半日ほど前のことだった。
―――『この島からのログを辿れば、次は夏島に着くはずだ』
桜が咲き続ける穏やかな町の酒場で隣り合わせた男はそう言っていた。
しかし出航して数日経った頃、やけに濃い霧に出くわした時点で、この船の針路は狂わされていたのだ。
数メートル先すら確認できないほど濃霧は広がっている。
航海士のラギは神妙な顔付きのまま中々晴れない霧を睨みつけていた。
「何か気になるのか?」
「この間の町で妙な話を耳にした」
「どんな?」
「ほんの少しでも夏島への航路から外れたら、もうそこへは辿り着けないと。
・・・そしてこう言っていたんだ。
――『もし深い霧が出たら、そこが“夜島”の入り口だ』ってな」
「“夜島”?」
そして、気付いた時には既に、この船は“夜”の海域へと入っており、意思を持つ波に揺られるように真っ直ぐ夜島を目指して進んでいた。
「噂には聞いていたがまさか本当に出くわすとはなァ」
いつまでも来ない夜明けに、シャンクスはニヤリと嬉しそうに笑った。
この人にとってどんな事態も“楽しく”てしょうがないのだ。
「お頭ァ、早いトコ引き返そうぜ」
「―――もう手遅れさ」
情けない声を出した新入りに、ラギが諦めたようにゆっくりと言い放つ。
そして、自分の腕にはめたログポースを半泣きの男の目の前に突き出してこう言った。
「見ろ、もう“夜島”にログを奪われちまった」
「ログがどうだろうと引き返さねェぞ」
シャンクスは晴れない霧を見つめたまま言い切った。
―――“夜島”には“夜”を支配する魔物が住む―――
そんな噂を耳にしたのはいつのことだったか・・・・
太陽に嫌われたその島は、今ではもう生ける者の住める土地ではなく、別名“ヘルズアイランド”と呼ばれ人々から恐れられていた。
だが、おれは―――
“夜島”と聞いたときから言い知れぬ期待と不安を抱いていた。
『あの男は夜島へ向かったのさ、海軍から逃れる為にな』
『イカレてるぜ、あいつは。何処にあるか正確な位置すら判らねェ島だぜ?』
『万が一辿り着けたとしても夜島で生きていけるはずがねェ・・・あそこは死の島だ』
頭の中に微かな記憶が蘇る。
寂れた酒場のカウンターに独り座るおれの背後で、酔っ払いどもが1枚の手配書を広げ、罵り嘲り『あいつはバカだ』と顔を歪めて笑っていた。
おれは不味い酒を勢いよく飲み干し店を出ようと席を立った。
そして何気なく、連中の酒の肴になっているその手配書に目を遣ったのだ。
名前を確認するまでもなかった。
右目の眼帯と少し伸びた髪以外は、あの頃と少しも変わっていなかった。
冷ややかに笑うその顔も、人を真っ直ぐに見つめる揺るぎない瞳も、20年前のあの頃と、何一つ・・・
もし、もう1度逢えるのなら―――・・・
「―――おい、ベックマン」
「あ・・・ああ、どうした?」
「おまえこそどうしたんだよ、ぼけーっとして・・・それより、見ろよ」
シャンクスは僅かに訝しい顔をしたが、すぐにおれから目を逸らし整った綺麗な横顔を向けた。
その視線の先を遅れておれも目で追う。
いつの間にかあれほど濃かった霧は掻き消えており、空を覆う夜空には銀色に輝く薄い月が無表情に浮かんでいた。
そしてその光の下には―――・・・
「・・・あれが」
「ああ、間違いない。“夜島”だ」
ラギはログポースを目の高さで固定しながら答える。
あまり笑わないラギにしては珍しく口元が上がっていた。
いや、ラギだけではない。
船全体がにわかに騒がしくなっていた。
「これが夜島なのか?」
「・・・みたいだな、おれはてっきり砂漠みたいな何もない島を想像していたんだが」
暗闇に浮かぶその島はおれたちの予想をあっさりと裏切るほど、緑に囲まれた美しい場所に見えた。
青白い月の光の所為だろうか、その光に包まれる島にはジャングルを彷彿とさせるような木々が蔓延り、見たこともない花が妖艶に咲き乱れていた。
だが、不気味なほど静かではあったが恐ろしいという印象は抱かせなかった。
迎い入れるわけでもなく拒絶するわけでもなく―――
この島は、ただ美しく、そこにあった。
「ベックマン?おまえさっきからヘンだぞ」
夢を見てるような不思議な感覚だった。
シャンクスの言葉が遠く聞こえる。
おれの顔を覗き込むシャンクスがぼんやりと霞む。
「おまえはどうする?魔物探索に付き合うか?」
冗談めかしにシャンクスは笑った。
周りを見回すと大方の連中は既に船を降りており、ガキみたいにはしゃぎながら鬱蒼と茂る森の中へ入っていくのが見えた。
「・・・おれは―――・・・悪い、先行っててくれ」
「やっぱりおまえヘンだぜ」
おれはシャンクスに力ない笑みを返し、船室へと歩き出した。
今が夜なのか昼なのか判らなかった
違うか・・・ここには夜しかないのだ
だからここはこんなにも静かなのだ
ここに住むものはみんな眠り続けているから―――・・・
じゃあ・・・
あの男もきっと―――
―――『おまえは、独りで生きていけばいい』
「・・・・・・・・・」
ふいに人の気配がしておれは目を醒ました。
どうにもすっきりしない曖昧な意識の中で、窓辺に立つ人影をぼんやりと見つめながら、今まで眠っていたのかすら判らないでいる自分に微かな憫笑が漏れる。
最後に掠めていった、あの哀しそうな笑顔と言葉がいつまでも離れずにいた。
「ホントにおまえは眠りが浅いな」
僅かに差し込む月の光を浴びながらシャンクスは呆れたように笑っていた。
「もう戻ったのか?」
「正確に言うと、おまえが船室に消えてから30分でリタイアしてきた」
「なんで」
「冒険にならないからさ。不気味な森の中は獣道すらないし・・・第一あんな光じゃ地面まで届きやしねェ。
迂闊に迷い込んで何に出くわすか判ったもんじゃない」
そう言ってシャンクスは低い空に浮かぶ上弦の月を指差した。
「魔物どころか動物の気配さえしない、夜は明けない、おまえはいない」
シャンクスは全部おまえの所為だと言わんばかりにベッドにどっかりと腰を掛けた。
「外は騒がしいな」
「飲むしかねェだろ、こんな時は」
「あんたの機嫌はどうすりゃ直るんだ?」
「キスしてから言うなよ」
おれたちは一瞬見つめあったあと同時に吹きだした。
「あの花は?」
おれは窓辺に置かれた一輪の白い花に目を遣った。
「唯一の戦利品さ」
「あんたらしいというか・・・」
「キレイだろ?」
「ああ・・・綺麗だ」
おれはシャンクスを抱き寄せ、その口唇をもう1度塞いだ。
微かな吐息が漏れる。
「ベックマン・・・」
「なんだ?」
「早く全部おれのモノになれ」
「なってるだろ」
「何処の誰だか知らねェヤツに重ね合わせられるのはゴメンだぜ」
その言葉におれの動きがほんの一瞬止まったのを、シャンクスは見逃さなかった。
「昔の話だ」
「おまえはおれが嫉妬しないとでも思ってるのか?」
シャンクスは右腕でおれを軽く突き放し、その勢いで立ち上がると、微かに光る青白い光の中で、真っ直ぐにおれを見つめた。
「―――出航は20時間後だ」
闇に溶けるような黒のロングジャケットをひるがえし、シャンクスはそう言って出て行った。
夜島の冒険をさっさと諦めた連中のバカ騒ぎはしばらく続いていたが、いつまでも静かなこの島の空気に、いつしか吸い込まれるように1人また1人と眠りに落ちていった。
そしておれは、脱ぎ捨てたままのシャツに手を伸ばし、不思議そうに見送るクルーの間を抜け縄梯子を降りた。
船体に括りつけてある小舟のロープを解き細いオールを掴む。
島の反対側ならもしかして―――・・・
「なんだ、これからデートか?」
小舟に乗り込もうとしたおれへ、あの人の声が闇を縫うように真っ直ぐに届いた。
「ああ、まァな」
おれはオールを地面に立て、シャンクスに微笑む。
シャンクスも涼しい顔をしたまま欄干に頬杖をついたまま笑っている。
「戻るんだろ?」
あんたがおれを待ってるというのなら―――
「戻るさ」
自分でもどうしたらいいのか判らず、
どうしたいのか判らなかった。
ただ、いつもの抗えない直感だけがおれを駆り立てていた。
今行かなければ、もう2度と会えないだろう・・・
いや・・・会いたいのだろうか?
もう1度
今更会ってどうするというのだろう
離れていた時間はあまりにも長く、共に生きた月日は残像のように儚い記憶だというのに
でも・・・それでも―――
何故だろう
もう1度、あのブルーグレイの瞳を見たいと
そう、思っていたんだ―――・・・