銀色の太陽
2
世界の終わりは
きっと、こんな風に静かで
そしてとても、美しいのだろう――・・・・・・
赤みがかった月は、静かに踊る海面を照らしていた。
おれはその不可思議な事態に気づかないまま、月を背に黙々とオールを動かしていた。
頭の中では走馬灯のようにさまざまな思い出が駆け巡っている。
胸を刺すような痛みと胸を締め付けるような郷愁が、言い知れぬ孤独をよみがえらせていた。
くわえたままの煙草がほとんど灰になった頃、おれはようやく周囲の騒々しさに気づいて手を止めた。
最初は、海面に映る黒い影が、先ほどよりも明らかに濃くなっていることを不思議に思うだけだった。
自分だけが取り残されたような不安定な浅瀬で、おれは辺りを見回し息を呑んだ。
―――海面だけではなかった。
ただの黒い塊りでしかなかった森が、今では生い茂る葉の一枚一枚の形まで捉えられるほど、滑らかな光を受け煌々と輝いていた。
「どうなってるんだ?一体・・・」
頭上から降り注ぐ月の光が、ほんの1時間前とは比べ物にならないくらい夜島を照らしていた。
一瞬浮かんだ考えを馬鹿な話だと打ち消し、ゆっくりと空を見上げたおれは、その『馬鹿な話』が現実になっているさまを目の当たりにして、ぽかんと口を開けたまま言葉を失った。
月は満月近くにまでいびつに満ちていたのだ。
この島へ着いたときは、確かに、爪の先ほどの新月に近い薄い月だったというのに。
それがわずか半日で―・・・
―――『あそこは死の島だ』
春島で聞いた噂話を思い出し、冷や水を浴びたようにぞっとした。
物言わぬ月から目を逸らす。
細く頼りないオールを勢いよく動かし、おれはその場から逃げるように舟を進めた。
わけのわからない状況を打ち破るかのように、わざと波音を立てたおれの耳に、かすかに、ピアノの旋律が聞こえた気がした。
島を左手に5分ほど漕いだ頃だった。
おれたちが船を泊めた場所とは対照的に、島の裏手は白い砂浜で埋め尽くされていた。
舟を寄せて、その粉雪のような白浜に降り立ったおれは、岩陰に小さな帆船があることに気づいた。
――人が、いるのか?
期待と不安が入り混じる―――
無用心にも武器と呼べる物はひとつも身に着けていなかったが、船の大きさから考えると人がいたとしてもたいした人数ではないだろう。
ただ、船体に残る無数の弾痕とメインマストではためく黒い旗が、海賊船であることを無言のうちに物語っていた。
しかし沈黙を守る小さな城には、海賊どころか、ねずみ一匹の気配さえなかった。
おれは船から離れ注意深く周囲に意識を向ける。
――どこからも入れそうにないな・・・
諦めて戻ろうかと視線を大きくずらした瞬間、進入を拒むように生い茂る木々の間に、大人一人がどうにか通れそうなほど狭い道が続いているのが見えた。
底なし沼のような白砂に足をとられながら、ザクザクと音を立て駆け寄る。
最近人が通った形跡があった。
ブーツのような足跡と、踏み折られた小枝。
あの船の主はここを通っていったのだろうか?
――考えるだけ時間の無駄だ。
おれは深く息をついてから、獣道と呼べるほどひどく荒れた道へ足を踏み入れていった。
気が、遠くなりそうだった。
ここがどこなのか、どこへ向かおうとしてるのか、
何を求めているのかすら判らなくなっていた。
この先に、一体なにがあるというのだろう―――?
自分でもわからないもののために、
おれはなにを必死になっているのだろう。
あの人の手を、離してまで――・・・
おれは・・・
月の光を遮るほど鬱蒼とした木々に呑まれそうになる。
何度も木の根に足をとられ、何度も倒れこんだ。
進んでいるのか、堕ちているのか、歩いているのか、走っているのか、止まっているのか
もう、何もわからなくなっていた。
それでもきっと、あの月は永遠に満ちていくのだ―――
時間の感覚が狂いだす―――
闇の中を、手探りで進む。
この先に続くのは地獄かもしれない。
そんなバカなことを考えては、暗い森の中を当て所もなく彷徨った。
どれくらいそうしていただろうか。
五分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。
時間という概念がおれの中で意味のないものに変わろうとしていたときだった。
突如目の前が開け、一軒の廃屋が姿を現した。
いや、廃屋に見えるだけで先ほどの船の持ち主の隠れ家かもしれない。
おれは空を見上げ、噴き出した汗をぬぐいながら大きく息を吐いた。
あの暗い森を抜けたおれにとって、中空に浮かぶ満月はまるで真昼のような明るさに感じられた。
その廃屋に灯りは点いていなかった。
おれは足元の草を掻き分け、閉ざされたままの戸口に立つ。
警戒しながらも扉を軽く叩き、耳障りな音を立てる年季の入ったドアノブに力を込めた。
と、同時におれを捕らえたのは、懐かしい、奇妙な感覚だった。
ドアを開けた瞬間漂ってきたのは、嗅ぎなれた煙草のにおいだった。
おれが初めて吸った煙草の、あの匂い
あの男が好んで吸っていた、あの煙草の――
鼓動が、跳ね上がるようにドクドクと音を立てた。
月明かりの届かない室内には、テーブルとイスが雑然と置かれており、奥のカウンターには、確かに人の気配があった。
おれが口を開くより早くその人影はゆらりと動いた。
「ようこそ、夜島へ」
期待とは裏腹に、聴こえてきたのはしわがれた老人の声だった。
嗅ぎなれたタバコをくゆらせる聞き覚えのない声に、おれは虚脱感を覚えるほど混乱した。
「外の人間にこの闇は恐ろしいか。待っていろ、今ランプを灯してやろう」
老人はガタガタと何かを探し当てると「滅多に使わんのでな」そう云ってマッチを擦り、淡く優しい光を生み出した。
無限の闇のような部屋が、形あるものに変わっていった。
ランプに照らし出された老人は、童話にでも出てきそうなほど立派な白髭を蓄え、お世辞にも小奇麗とはいえない身なりをしていた。
伸びきった髪の毛と口髭で、表情はほとんどわからなかった。
夢を見ているような感覚は変わらなかったが、それでも独りで森を彷徨っていたときによりははるかに自分のペースを取り戻すことができた。
こんなささやかな明かりひとつで、安堵感を憶えるとは・・・
「さぁ、突っ立ってないで座ったらどうじゃ。美味い酒をご馳走しよう」
老人は警戒する様子もなく、カウンター越しに手招きをすると深緑色のボトルを取り出しくすんだグラスに注いでくれた。
同じ煙草などいくらでもある―――
勝手に期待して勝手に落胆している自分に苦笑してから、おれは言われたとおりカウンターの硬いイスへ腰を下ろした。
「ここは、酒場・・・なのか?」
老人の後ろに並ぶ数え切れないほどの酒瓶を見つめながら、おれは口を開いた。
「それ以外何に見えるというのかね?――まァ、客など滅多に来ないが・・・
わしはもう80年この島に住んでるよ」
かすれた笑い声が室内に響く。
遠く聴こえる潮騒だけが、この店のBGMだ。
「ずっと独りでか?」
「今まで色々な人間がこの島へ辿り着き、そして再び光を求めて出て行った。
―――おまえさんは何しにここへ?」
「人を、探してるんだ」
「この島で人探しか、そりゃあいいな。この島にはわししかおらん」
ではあの帆船は、この老人の物だというのだろうか?
いや、何かがおかしい。
明らかにかみ合わない、違和感のようなもの――
そう・・・
この老人は、あまりにも闇と同化しすぎていた。
「月は何故満ちてゆくんだ?それにこの島に生き物はいないのか?」
「まずは一杯飲んだらどうじゃ。あの森を歩き続けたのだろう?」
赤色の液体を前にして、死ぬほどのどが渇いていたことを思い出し、ロクに味わいもせず一気に飲み干した。
のどが潤されたことよりも、その味に惹きつけられた。
「・・・美味い、なんて酒だ?」
後を引く深い味わいと、芳醇な香り、今までどこの島でも味わったことのない、不思議な味のする酒だった。
「ふふ・・・気に入ったかね?夜島の木の実から作っている酒じゃよ」
老人はすぐに酒を満たしてくれた。
今度は極上のワインを飲むように、香りからゆっくりと味わった。
――あの人もきっと一口で気に入るだろう
艶やかに濡れる赤色の髪を思い出し、独りで静かに笑った。
「さて、おまえさんの質問じゃが」
自分のグラスにも酒を満たし一口飲んだあと、そのボトルをおれの方に置き「好きに飲め」とぼそりと言った。
「この島に生き物はいるさ、ただ、今は“昼”なのでな、みんな寝とるだけだ」
「昼・・・?今が?」
さっぱり判らない
酔っているのか、イカレているのか――・・・
「嘘をついても何ひとつ得することはない。信じるも信じないもおまえさんの自由じゃ。
何故月が満ちるか―――これがその答えじゃ。
新月から満月までが“昼”。そして月が欠け始めるとこの島には“夜”が訪れ、動物も植物も、この島の生き物達はみんな目を覚ます。
おまえさんがあの森を通り抜けることができたのも、今が“昼”だったからじゃよ。
“夜”にあの森へ迷い込んだら最後。運が良ければ生きて出られるかもしれんがね。
この島の生き物達は人を迷わせるのが好きでな」
まるでいたずらをする子供のように口元を少しだけ緩めた。
短い沈黙の後、老人は再び静かに話し始めた。
影の落ちた目元は硬く閉ざされたままだった。
「昔、たった一度だけ、本物の太陽を見たいとこの島を飛び出したことがあった。
訪れる海賊や旅人から聞く“夜明け”や“夕暮れ”というものの美しさ、肌を焦がすほど照りつける眩しい光。
時には温かく、時には残酷に輝く太陽というたった一つの奇跡。
わしには想像もつかない世界だった」
この島に生き続けているもの―――
闇を愛してしまったのか
それとも、闇に愛されてしまったのか・・・
「赤ん坊の頃この島に捨てられたわしは、その時この島に住んでいた1人の男の手によってどうにか生きることを許された。
その男は元海賊で、世界政府さえも恐れるほど強大な海賊団の船長だったそうだ。
だが、男は両足を失い、仲間を失い、失意の底で、太陽の光から逃れるようにこの島に辿り着いたと言っていた。
“もう2度と海賊をやることはない”そう言いながらも、わしが物心ついたときから男は航海術や船の扱いを教えてくれるようになった。
そして12の誕生日――男が勝手に決めたものだが。その誕生日を迎えた日に、男はこう言ったんだ。
“この島を出て、本物の太陽を見にいこう”とね。
何よりもその男の方が、永遠に続く夜に耐えられなくなっていたのかもしれない。
幼かったわしも、太陽というものに憧れを抱いていた。お陰でこのざまさ」
老人は閉ざされたままの瞳を開けることなく、おれの方へ顔を向けた。
「その目は――・・・」
老人は微かに頷いた。
「あの深い霧を抜けた瞬間、わしは確かに見たんじゃ。そう、ほんの一瞬だったが。
青く煌く海は、まるで無数の宝石のように美しかった。
そして生まれて初めて見る太陽の鮮烈な輝き。
わしの最後に見た景色が、あんなに美しいものでよかった。
だから後悔はしていない。
この島ではあの月こそが太陽なんだ。
わしにはもう見えんが、太陽のような強烈な光より、月の優しい光の方が、わしには合っているんじゃな」
老人は深く息を吐いた。
「おまえさんは海賊だろう。あまり長居せん方がいい。
元の世界に戻れなくなるからな――わしや、あいつのように」
その瞬間、今度ははっきりとピアノの旋律が聞こえた。
この店のすぐ近くからだ。
「じいさんのほかに誰もいないんじゃなかったのか?」
「おまえさんが海兵か賞金稼ぎだと面倒なんでな、嘘をついた」
「おれが海賊だとよく判ったな」
「判るさ、わしの使い物にならなくなった目以外は、動物並みじゃよ」
流れてくる旋律に耳を澄ませながら、おれはカウンターに彫られた文字を指でなぞった。
――もう疑う必要はない。
「これを彫ったのは、ピアノを弾いてるヤツだろう?」
「ああ・・・そうじゃ、よくわかったな。
わしの名前だそうだ」
「じいさんの?」
「わしを育ててくれた男が死んでから、わしには名前など必要なくなってしまったんだ。
名前というものは、誰かに呼ばれてこそその意味を成す。
わしの名を呼んでくれるものはもうこの島にはいなくなってしまった。
長い年月を過ごすうち、わしは自分の名前を忘れてしまったのさ。
だが、あいつは“それじゃ困る”と言い張った。
だから好きに呼べと言ったんじゃ。
“レヴィ・ラシュール”
あいつはそんな名前をわしに与えてくれた。
そして忘れないように、そこへ刻んだのさ。
―――まったく不思議な男じゃ」
旋律は止まない。
まるで森の生き物たちの目覚めを誘うような、穏やかで優しいメロディだった。
「レヴィ・ラシュールか・・・じいさんにはぴったりかもな」
すると老人は深く皺の刻まれたその顔に不思議そうな色を湛え、視えないその瞳でおれを凝視した。
「この名に意味などあるのか?」
「何だよ、何も聞いてないのか?」
「“意味などない”とあの男は―――」
――まったく、あいつらしいというか・・・
おれは呆れたように小さく笑った。
甘くもなく苦くもない、絶妙な味のする“夜島”の酒を味わいながら、あの男を想う。
懐かしい旋律が、おれを20年前のあの頃に引き戻していく。
「―――おれが育った島の、祈りの言葉さ
“レヴィ・ラシュール”
つまり、“夜の神”って意味だ」
「“夜の神”・・・」
老人はつぶやくように反芻してから、子供のように微笑んだ。
笑うことを思い出したような、そんな笑顔だった。
「人探しは済んだようじゃな」
「ああ」
おれは立ち上がると、しわくちゃの紙幣を数枚ポケットから取り出した。
しかし老人はランプに手を伸ばしながら、それを制した。
「金はいらん」
「だが―――」
老人はニヤリと笑って言った。
「“夜の神”のおごりさ」
そして静かにランプに息を吹きかけた。
また闇の中に全てが包まれる。
「ありがとう」
漆黒の闇の中で
“夜の神”が、笑った気がした。